金城一紀の「在日文学」から見るマイノリティー性

以下は最近学校で出したレポートの内容である。駄文ですが、時間がある方はどうぞ。





「俺が殺せるのかよ、日本人」

(『フライ,ダディ,フライ』 P128)


これはゾンビーズ・シリーズのキャラクターの朴舜臣の台詞。



「おまえ、『日本』ていう国号の意味を知ってるか?」

(『GO』 P135)

そして、こちらは「GO」の主人公であるクルパーこと杉原の台詞。共に喧嘩の始まりを告げる合図である。「日本人」「日本」とあるように、どうも彼らは日本人ではないらしい。喧嘩相手が日本人のようだ。では彼らは外国人なのか。それも違う気がする。では彼らは何なのか。彼らこそ今回のテーマであるいわゆる「在日」と呼ばれている人々である。ということで私の好きな作家である金城一紀の作品より(特に「GO」を中心に)、「在日」のマイノリティー性について考えていきたいと思う。

金城一紀。『GO』『ゾンビーズシリーズ』などで若年層を中心に支持を集めている売れっ子作家の一人である。そんな彼は韓国系日本人であり、自らを隠さず「コリアンジャパニーズ」と呼んでいる。1968年に生まれ、中学まで民族学校に通い、高校から日本の学校へ行っていた。そして2浪を経て、慶應義塾大学法学部へ進学。大学1年生の時に、親友が亡くなったことがきっかけで「急にボンって、小説家になろう」と決意する。ちなみに、それまでは、プロボクサーかプロゴルファーを目指していたそうだ。大学在学時代からの乱読の日々、8年間を経て、98年「レヴォリューションNo.3」で、小説現代新人賞を受賞し、00年に「GO」で第123回直木賞を受賞する。そんな彼の作品は在日文学と呼ばれている。そう金城一紀の著書には一貫して、在日朝鮮人在日韓国人のキャラクターが登場しているのだ。彼の作品は彼の生き様そのままが反映されている。一人一人のキャラクターは彼の分身なのだ。キャラクターに自分の人生を背負わせている、そんな印象すら受ける。フィクションであるがノンフィクションとしか思えないリアリティが人々を引きつけているのではないかと私は考える。それも誰も見えない聞けない知らないマイノリティーの経験ゆえにだ。そこで彼がキャラクターに言わせたいこと、表現したいものは一体何なのであろうか。

金城自身の人生の1シーン1シーンをキャラクターに分け与えたといっても過言でないのが、「ゾンビーズ・シリーズ」である。これは新宿区にある典型的落ちこぼれ男子高に通う主人公「僕」やヒロシやアギーや萱野などの≪ゾンビ≫たちの物語だ。そこにはキャラクター朴舜臣が描かれている。ゾンビーズ・シリーズの最初である「レボリューションNo.3」ではゾンビーズの一キャラクターにすぎなかったが、シリーズ二作目「フライ,ダディ,フライ」では、主人公のトレーナーとしてかなり重要な役になっている。(映画ではV6の岡田准一が演じていて有名だろうと思うが)彼は民族学校に通っていた在日朝鮮人である。舜臣はいつも本を読んでいる読書家でもあるが、また同時にヤクザから即戦力としてスカウトされるほどの喧嘩の達人でもある。しかし彼はヤクザにはならなかった。

「俺はどの世界に入ってもトップを目指したいんだ。でも、ヤクザの世界じゃトップになれないことが分かったからやめた」

「何をどうやって分かったんだ?」とアギーは聞いた。

「俺は人を殺せると思ってたんだよ。でも、殺せなかった。人を殺せないヤクザなんてヤクザじゃねえだろ。ヤクザじゃない奴がヤクザのトップにはなれない」

(中略)

「人を殺すには在日ってだけじゃ足りねえんだ。あと四つか五つぐらいのハンデをしょってないと俺には人を殺せないよ。俺はこの国で生まれて、何不自由なく育ってるんだぜ?」

(『レボリューションNo.3』 P100〜102)

そして作中で彼は次のように夢を語っている。

「俺プロゴルファーになろうと思ってんだ」

「強くなって、世界を転戦してまわるんだ。日本は狭いよ」

(『レボリューションNo.3』 P65)

そう金城本人と同じ夢である。彼と舜臣が重なる瞬間だった。

また舜臣もそうだが、主人公「僕」もかなりの読書家である。日本文学から思想書だったりと作中では様々なジャンルの書名が飛び交っている。有名どころから聞いたことのないものまで、それはもう雑多だ。作者の読書歴が窺えるが、その読書について金城はインタビューでこう答えている。



―― いつくらいから読書を?

金城 : 小学校4年生ぐらいから図書館通いを始めまして。私立の民族学校に行っていて、地元に帰ると友達がいなかったんですよ。それに、家がすごく狭くて、逃げ場所が欲しかったんですよね。児童館とか嫌いだったんです、バカにされているカンジがして。で、いきなり大人のほうにいっちゃった。昔、探偵になりたかったからミステリーばっかり読んでましたよ。アガサ・クリスティとか、コナン・ドイルとかから入って、全部読んで、一通り終わった時から日本のモノに入って、赤川次郎、西村京太郎、松本清張さんとか。漫画が大好きでした。「サスケ」とかね。元々マンガは大好きで、小学校3年生のときにブラックジャックを読んで、それからずっと読んでいますね。

中学生ぐらいからは、ミステリーとか、ハードボイルドとか、渡辺淳一さんの「光と影」とか。とにかく棚を回って、目についたもの、読めそうだなと思うものを手当たり次第に読んでました。父親は思想書とか読んでいたけど、周りに本について教えてくれる人は誰もいなかったから、ほとんど勘。民族学校では隠れて読んでましたね、日本語の本を持っていったら怒られるから。

高校生からは小説をあまり読まず、思想書の類とかに行きました。国籍を変えて、環境が激変したので、アイデンティテイが揺らいだことがあって、理論武装しなきゃって。難しい本に走って。本多勝一さんとか、わかんないのに、ショーペンハウエルとかニーチェとか読んでいた。サリンジャーとか純文学系というか、世界で評価を得ている、エンターテインメントとか「華麗なるギャッツビー」とか、そういうのも読んでいましたね。実は、大学1年の時に作家になろうと決めてまして。なので、自分でノルマを決めて、1日2,3冊は読んでいましたね。作家になるまでに計画的にたくさん吸収してデビューしようと思っていたんですよ。自分の中で、「今までに書かれたことのないものを書きたい」っていう欲求があったんで、何が書かれているか確認しておきたかった。だから、大学入ってから小説書くまで8年間ぐらいあったんですけど、もう、夥しい数のものを、手当り次第に読みました。ジャンルは問わずにね。

彼の経験そのものが作品で活かされている。自分の人生で培った経験や思想をそのまま作品に投じていることがこれでよく分かる。そして作家になる上で彼はこう決意してデビューすることとなる。



でも、「全部書かれてるよ。新しいものを書くには、自分で文字を発明して書くしかないな」って思うぐらい、ある意味、絶望もしたんですよ。それで、日本文学にないものって思って、じゃあ在日文学でって思って、「GO」を書くことになったんです。

ゾンビーズ・シリーズ」は在日朝鮮人である舜臣含む彼の分身たちの活躍するフィクションであるが、「在日」についての言及は割合少ない。しかし、デビュー作である「GO」は本人がいうようにまさしく在日の問題がメインで取り上げられた「在日文学」である。「在日」としての金城が腰を据えて在日の問題に取り組んだ半自伝小説なのだ。

主人公杉原は元プロボクサーの父をもつ在日韓国人3世である。元々は在日朝鮮人だったが、両親がハワイに行くために韓国籍に変えた。彼ももともとは民族学校に通っていたが「学校開校以来のバカ」と言われながらも、日本の高校へと進学する。しかしそこでも上手く馴染めず、挑戦してくる相手に喧嘩をする日々だった。そんな彼の数少ない友人である加藤に連れられ、桜井という女の子と出会う。こういったかんじで物語は進んでいくのだが、その過程では様々な衝突があり、複雑な民族問題が絡み合う。それを取り上げて、著者の言わんとしていることを汲み取っていきたい。

杉原が中二の時のこと。所属していたバスケ部が民族学校の全国大会の決勝で一点差で負け、控え室に戻ってからの1シーン。悔しさのあまり泣き始めた1年生にビンタを見舞ったコーチがひどく冷静な口調で次のように言うのだった。



「人前で泣く奴があるか。おまえたちはいつも敵に囲まれて生きているんだぞ。敵に涙を見せるっていうのは、憐れみを乞うことと一緒だ。敗北を認めることと一緒だ。お前らが敗北を認めるということは、朝鮮人全体が敗北を認めるということになるんだ。だから、人前で泣くような習慣は絶対につけるな。泣きたかったら、部屋にこもって独りで泣け。」

(P161)


 普通に考えて、僅差で負ければ悔し涙を流し、それをコーチなり教師なりが健闘を讃えるのが当然であろう。しかし、その普通というのは我々「日本人」から考える普通である。民族学校に通う彼らに涙を流すことは許されない。そういった思想教育をされているからだ。「いつも敵に囲まれて生きている」と教えられ、彼らは団結し、差別から身を守ろうとする。ゾンビーズ・シリーズの舜臣も伯父から“この国で生き残るため”に喧嘩を教えてもらったというシーンもあった。

「コリアン世界の旅」によれば、朝鮮学校などの民族教育に対する日本の対応は大変冷ややかで、在日に二者択一の選択を迫る。それは南北に分断された祖国への帰国か、帰化するかである。そうして、祖国思想の濃い朝鮮学校韓国学校医に通う人と通名で日本の学校に通うこととなる。大半の在日2世たちは、日本の学校で何らかの民族差別を体験し、差別されないためにより徹底的に自分の民族性を殺して日本人になりきろうとした。この本で大阪市立大学助教授で在日二世の朴一(イル)が、小中学校時代に自身が日本名でずっと行っていて友達を呼んだという話をしている。窓を開けてキムチをの臭いを必死にとる。しかしチョゴリを着たハルモニが奥にいたのである。彼は彼女を二階の納戸に監禁した。友達が帰ったあと納戸を開けるとハルモニは自殺をしようとしていたらしい。若いころから激しい差別を受けて、そして今孫からも監禁されたからだ。悪いことをした、と彼が講義ですると、涙を流す学生が多いらしい。

「でも、それは日本人の学生なんです。在日の子は泣かんと堪えるんですよ。

あとで聞いたら、涙が出そうになったけど泣いたら(在日であることが)バレるから必死に我慢した、

と。『インビジブル・マイノリティ(不可視の少数派)』には、そういう苦しみがあるんです。」

(P77)


 日本名をなのり日本人として生きようとする彼らには韓国の血が流れている。しかし、彼らは授業を日本語で受け、日本語を喋り、韓国語や朝鮮の文化に触れることはほとんどない。帰化した在日のマイノリティの子供たちに民族の言葉や文化を教育される機会はほとんどない。そうすることで民族差別から身を守るこういった手段もあるのだ。在日の子供たちは「インビジブル」なのである。金城の「GO」の中に『同じマイノリティである黒人はブルースやジャズやヒップホップやラップという文化を築けたのに、どうして≪在日≫は独自の文化を築けなかったのか』(P126)と友達の正一(ジョンイル)と議論したという部分があるが、これも「インビジブル」が大きく原因していると私は思う。黒人の差別というのは肌の色というその肉体を嘲るという、黒人などの有色人種と白人単純といえば単純な構図である。であるから一方的に差別を受け、これを免れることは不可能に限りなく近い状況にあった。これに対抗し、生き延びるためにも、強いソウルを持ち、彼らは団結できた。その結果深いパワーのある文化が生まれたのだと考えられる。不可避な差別から対抗しうるための結束、そして文化。しかし、「在日」の彼らはより複雑な構図をとっている。ひとえに「在日」といったってそれはもう様々である。在日朝鮮人在日韓国人、日本帰化者など。そして彼らは同じ「在日」と一くくりにできるほど単純な関係ではない。複雑なのである。肌の色から見分けがつくわけでもない。そのルーツや思想が異なっているが、それはなかなか明らかになるものではない。差別から身を守るために抗うことをやめ、同化しようとした日本帰化者は他の者からしたら「裏切り者」「民族反逆者」といわれてしまう。在日の中でもまた敵対関係があり、これでは「在日」としての団結など生まれることは難しい。日本人というマジョリティに体を溶け込ませたものの心に残る韓国の血がマイノリティを彼らに持たせている。彼らにそのマイノリティを告白しにくい状況にしているのが、通称単一民族といわれる我が国日本なのだ。マイノリティを消そうとするために彼らは隠しざるをえないのである。

しかし韓国から帰化した韓国系日本人であると公言した人もまた少なからずいる。「スターにしきの」こと、にしきのあきらもその一人である。先述の本では、差別に対する思いがあると語っている。父母の世代と比べれば、民族差別との闘いというのは幾分かましになり、そういった経験も少ないという。しかし、差別的な言葉に対しては常に身構えるものがあったという。

「もし喧嘩になってそう言われたら、俺は見境つかなくなるんじゃないかというのはあったね。相手が死ぬんじゃないか、人が止めないと殺しちゃうんじゃないかというぐらいのものはあったよね」

「そう、そう、そう。『朝鮮人が』って言われると、上から見下されたような、貧困な国の汚い人間みたいに響くんだよね」

(『コリアン世界の旅』P25)


彼らは帰化しようとしまいと、あるいは帰化しそれを公言しようとしまいと、どちらにしろマイノリティを持ち続けている、日本にいる限り。では韓国・朝鮮に戻るという選択肢はどうか。「GO」では、高校に上がった年の秋に韓国へ旅行に行った杉原であるが、現地のタクシードライバーとの喧嘩で騒動を起こす場面がある。すべての韓国人ではないが、一般的に「≪在日≫は恵まれた日本で、苦労もせずに何不自由なく暮らしている≪韓国人≫」(P82)とみられている。そのために韓国人からも同じ韓国人とはみなされない。「在日韓国人」の「在日」という二文字によって韓国人からも差別をされるのである。

この問題について大阪・千日前の「伽倻」の女性オーナーであるチェスンミはあるインタビューでこう言っている。


「在日って宙ぶらりんですよね」といった言葉が何度か口をついて出た。(中略)

「私らは、はんぱな人間なのよね。帰化してるけど、日本の人からは『韓国人』って言われるし、韓国の人からは『日本人』って言われるんだから。しかたないけど、私らはいつも中途半端なのよね」

(『コリアン世界の旅』P59)


 先ほどのにしきのあきらも「もし日本と韓国で戦争があったら」という仮定に対して、どちらにも銃を向けることはできないと答えている。日本と韓国のどちらかに完全に属せない彼らは一体どこへいくのだろうか。体を日本においているとしても、その心はどこにあるのだろうか。

この問いに対し、金城は「GO」の主人公に言葉をまかせ答えている、そんな気がしてならない。桜井という日本人と出会い互いに想い合ったが、ある時杉原は自分が日本人でないことを告白し、それから桜井を避けた。しかし、彼女の方から連絡があり、学校で会うことになったという場面がある。このときに桜井に対して杉原のもつ日本人に対する怒りをぶつけた。抑圧されてきた「在日」の人のもつ「インビジブル・マイノリティ」がぶわーっと杉原の怒りの言葉を通して吐き出されたのである。



「別にいいよ、お前らが俺のことを≪在日≫って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ?何かに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ?

おまえら、俺を≪在日≫って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は≪在日≫でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめれくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけれりゃ、おまえらの望み通りこの国から出てってやるよ。おまえらにはそんなことできねえだろ?おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだっていけるぞ。いつだって行けるぞ。」

(P231)


 桜井もとい日本人に対する強がりのようにもみえる言葉だが、「在日」を代表したれっきとした意見であろう。この言葉の前では、我々が無意識で使っている「在日」という言葉に、一時的滞在といったニュアンスがあり、出ていけと間接的に言っているようなものだとも主張している。そして杉原は別のシーンでミトコンドリアDNAの話をしているが、それは1世2世ではなくもっともっと祖先をたどれば、最終的には人は共通した「女の人」にたどりつくという話だ。つまり今の多様な民族にはもともと同じ血が流れているということだ。純血などありはしない、みんな混血である。日本人にも朝鮮の血は流れているだろうと彼は言う。それなのに無知で無教養で偏見で差別している日本人をかわいそうなやつらとアキラメている。子供のように怒り、泣く杉原ではあるが、彼の視点は表面的な言葉や歴史とかではなく、もっと深いことに対して向けられている。

また別のシーンがある。杉原と同じ高校に通う「在日韓国人」である宮本は若い「在日」を集め、グループをつくるために杉原を誘おうとする。しかし杉原はそれを断った。そして宮本から国籍を日本にしない理由を聞かれ、2回目の誘いに対し次のように答えた。



「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに組み込まれたり、取り込まれたり、締めつけられたりされるのが嫌だからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属してる、なんて感覚を抱えながら生きてくのは、まっぴらごめんなんだよ。たとえ、それが県人会みたいなもんでもな」

「でもな、もしキム・ベイジンガーが俺に向かって、ねえお願い、国籍を変えて、なんて頼んだら、俺はいますぐにでも変更の申請に行くよ。俺にとって、国籍なんてそんなもんなんだ。矛盾してると思うか?」

(『GO』P218)


これはゾンビーズ・シリーズのアギーの考えと重なる。コスモポリタニズムである。アギーは本名を『佐藤・アギナルド・健』といって、日本とフィリピンノハーフなのだが、母親の方にスペイン人と華僑の血が流れているので、4カ国分のDNAをもったスーパー・ハイブリッド種として紹介されている。彼の夢はその端正なマスクで7つの海に女をつくる、そして本物のコスモポリタンになること、とある。そんな彼とまったく同じといっていい思想である。(ちなみにキム・ベイジンガーはアメリカの女優。最初韓国人かと思ったが、そうではなかった)

金城は「日本」「韓国」「朝鮮」という国を問題にするのではなく、「世界」「人類」という基盤にたっている。故にマイノリティは問題にしない。しているのだろうが、強がりを見せているのか格好つけているのか、言葉変えれば「クソくらえ」ということなのだろう。問題の所在を小さな世界から広い世界へうつすことで、民族問題がいかに小さいことかを訴えているのだろう。マイノリティを小説というメディアで訴えかけることでそれを成し遂げようとしているのだと私には見えた。

最後に「GO」の中で私が特に印象に残った言葉がある。杉原がオヤジに教えてもらったスペイン語。そして喧嘩相手に向けてはなった言葉。これこそ金城の本音なのかな、と個人的には思った。これが新たな「在日」モデルの思想を象徴する言葉であろう。



「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード(俺は朝鮮人でも、日本人でもない、ただの根無し草だ)」
(P218)


彼らに国境線は関係ない、そんな時代がくるのかもしれない。金城は、その先陣をきったといえるだろう。

参考文献:

・『GO』[角川文庫版](金城一紀著, 角川書店, 2007)

・『レボリューションNo.3』(金城一紀著, 角川書店, 2005)

・『フライ,ダディ,フライ』(金城一紀著, 角川文庫, 2007)

・『コリアン世界の旅』(野村進著, 講談社, 1996)

・『WEB本の雑誌 – 作家の読書道 第6回 金城一紀

http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi06.html


GO

GO

フライ,ダディ,フライ (角川文庫)

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レヴォリューション No.3 (角川文庫)

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コリアン世界の旅 (講談社文庫)

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