絶望的状況下におけるケアを考える

以下もまたレポートノ内容です。これは社会福祉についての授業です。ターミナル・ケア等を学びました。本当に幅広し、うちの学部。


今回担当したのはテキストとして使った『<ケアの人間学>入門』2章の「わたしたちの生きかたとケア」である。ここでは絶望的状況下にたたされた人に対するケアについて書かれている。この章で僕が特に気になったところがある。

 わたしたちが死についてあるいは死後の世界について面と向かって議論することが困難な社会に生きている(『<ケアの人間学>入門』P36)

 わたしたちは死をめぐり議論を行い、理解を共有していくための開かれた空間を見つけづらい社会に生きている(同上P48)

何度も強調されている。こういった議論がなければ、絶望的状況に陥るとき、突然あわててしまい、周囲はケアすることが難しいと語る。死の問題に直面する前に議論をするべきなのだが、それはほとんど見られていない。そこで発表の場ではこういった議題を用意した。

 どのようにすれば、「死」について議論を行える社会になるか。

これに対しどういった考えを僕が持つか、意見を述べたいと思う。


死。これは万人がもっとも恐れているものである。「死ぬほど〜」という言葉が使われるのもそうだ。また病院などにおいて日本では4が避けられ、アメリカでは13が避けられているというのも、その数字が死を連想させるからである。4だろうが7だろうが、そんなものは一切実際の死とは関係ないのだが、それでも気になるほど我々は死に対し繊細になっている。我々はその恐ろしい死とどう対峙しているかといえば、ひたすら忘却、回避、排除するだけである。だがしかし生ある者は必ず死に帰すというように、人は死を100%避けることができない。つまるところいずれかは向かい合わねばならないことなのである。それを人は知らないかというとそうではない。知っているからこそ、忘れようとまた消し去ろうとしているのである。


 さてそんな死に対しどうやって向き合うべきなのだろうか。昔とは異なり、我々は死に触れる機会は圧倒的に少ない。戦争がなく、犯罪も割合少ない今の日本では死人を見ることがない。病院上ばかりで死んでいるそんなイメージさえある。しかし我々が伝統的に死に触れるときがある。それは葬式である。様々な宗教多しといえど、人が死ねば必ずこういった文化的プロセスを通る。こここそ「死」について話合うべき場所なのではないかと思う。だが、ここで問題なのは葬式の中身である。個人的な体験談を言わせてもらえば、ある法事では「千の風にのって」が垂れ流しにされて終わったということがあった。こんなことでは議論することにはならない。そこでよく葬式で読まれる『白骨の御文』を少し紹介してみたい。これは室町時代浄土真宗を日本全国にひろめた蓮如の手紙の中の一である。はだしのゲンやドラマなどにも登場する大変有名な文章だ。これが書かれた経緯は、とある村人の家族が次々と亡くなり、その知り合いであった侍がそのことを蓮如に話したところ頂いたのである。そうしてこの手紙が大変名文で全国に読まれるようになり、それが現在なお残っている。その説かれた内容について少し触れておきたい。
 

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて(御文章五帖目十六通)

仏教では無常が説かれる。無常とは常が無いということだが、最大の無常とは生あるものが死ぬということだ。その死は老少不定、つまり老人が先に死に若者は後ということは定まっていない。無常の前では皆同い年である。そして仏教は後生の一大事を知り、その解決が目的である。いつ死ぬかわからないというのもそうだが、死んだ後があるのかないのか分からない。このような未来への最大不安を後生の一大事という。(本当はもっと詳説せねばならないが)この後生の一大事が自分にあることを忘れるな、こう言われているのである。もちろん前後にはさらに詳しく説かれている。

 こういった説法を通して、日頃は避けていた死という問題も、こういう時ばかりは素直に聞けるものである。目の前に死があり、そして死ということを聞く。自分も必ず死ぬという自覚がようやく生まれるのである。これを仏教では無常観と言われる。無常を観ずるは菩提心の一なり、というように、これが自己の人生を見つめる第一歩である。そしてそれはそのまま他人の人生を見つめられる素養となる。自分の人生さえ分からない人間は、他人の人生など語ること、ましてケアは難しい。

 実際に死に直面し死を聞くことで、その理解をすることで人生観を深め、それを他人に共有するというのがいわゆる宗教的ケアであろう。単純に一緒にいてあげることや他愛もない話をすることもケアではあるが、絶望的状況にいる人間にとっては気休め程度にしかなりえない。死に直面した人にはこういった宗教的ケアが行われるしかない。とはいえ直前になって慌てふためいても仕方がない。それまでにいかに死を知るかが大事である。その場として私は葬式を利用すべきと考えた。誰もが経験するこの文化的習慣が形骸化する今こそ、原点に回帰し、真のケアを考え実行していかねばならない。


参考文献:
『<ケアの人間学>入門』(浜渦辰二編, 知泉出版, 2005)