実名、仮名、名無し。あなたはどれ?

■アナタハダァレ?










アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系










■文章で何かを表現する際、「誰が書いたものか」ということに注目しますよね。


 それはその文章を読む側からしたら、誰が書いたかによってその文の意味合いは変わってくるからだし、


 逆に書く方からすれば、「誰として書くのか」という意識によって、その内容あるいは文体も変わってきますから。

 そう、この「誰が」という問題は文と切っても切れない関係にあるわけです。


 そこで今回この「誰か」という表現主体について、今期の授業で学んだことを通して論じたいと思います。

 授業で取り上げられた『ウェブ人間論』の中で梅田と平野啓一郎はネット、特にブログについて言及している場面があります。


 梅田さんはベストセラーとなった『ウェブ進化論』でブログ(※1)について大きく書いています。


 そこでブログから、この問題を考えてみましょうか。


 ではまず梅田氏によるブログの意義とは何か、少し見てみましょう。



 

途方もない数の「これまで言葉を発信してこなかった」面白い人たちがいて、その人たちがカジュアルに言葉を発する仕組みをついに持ったということ(梅田望夫ウェブ進化論』P137

こう語っています。


今までごくわずかしか意見を発信することが出来なかったのが、インターネットの発達により、膨大な数の人間が発信することが可能となったってわけです。


そしてその発信媒体の一つであるブログに多くの人間が流れ込み、今や日本はブログ大国になっています。(ブログの単純言語数は日本語がトップですからねぇ)


ところがこのブログ「誰が」書いているか興味深い違いがあります。大きく分けて匿名と実名の二つてなわけです。


しかしここで混乱しないために匿名とは何かを確認しておきたいのですが、匿名というのは

  

実名をかくして知らせないこと。(広辞苑



です。ここで注意してほしいのは匿名の意味の広さ。単純に実名以外ととらえてしまうと、分からなくなる。


ここではあえて匿名という言葉を使わず、「仮名」と「名無し」に分けてみようと思う。


(梅田さんはここを混同させてしまっている。あるいは名無しを排除している節がある。※2)


「仮名」というのは、実名は使わないもののニックネームやあるキーワードで自己を特定することとする。


「名無し」は字のごとくで、名前は皆無。特定も出来ない状態を指す。


そして平野はブログをやっている日本の人の意識についてより細かく5種類に分けている。



   一つは、梅田さんみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
  二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できない自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かり合える人たち同士で割と気安い交流が行われているもの。
  この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
  三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際はあまり人に公開するという意識も強くないのかもしれない。
  四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉 えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
  で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますが、ネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気がつかないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。


 非常に面白い分け方であり、しかも的確だと思いませんか。


▼さて日本で一般的なブログとは、ここでいう二つ目と三つ目だろう。


一つ目ほどではなくとも、リアル社会とつながりがある媒体である。


これらの特徴としては、仮名を使っている人が多いということだ。


またプロフィール画像は自身の写真ではなく、自分を模したアバター(分身)にしたり、あるいは自分の好きなキャラクターや芸能人、飼っているペットなどにする。


そして自分がどんな職業についているのか、普段何をしているのか、や肩書、家庭状況などについて、個人差はあるものの具体的には示さず、それとなくほのめかす程度にとどめている。


このように実際の自分は直接的には教えず、見ているものとしてはそのニュアンスを受容するしかない。


このような曖昧な関係であるから、自分を誇大化することはいともた易い。


いわば自己を「キャラクター」化していると言えないでしょうか。(※3)


実名や実際の姿は見せないが、ニックネームとキャラで特定してもらいたい思いは強い。


日本人らしい奥ゆかしさ、なのであろう。



▼次に注目してほしいのは、4つ目5つ目である。


平野自身もここに関心をおいている。


本音の中の本音が聞けるスペースである。


そしてこれらのブログは実名ではありえない。


少数の「仮名」を使った人はいるものの、「名無し」が多い。


梅田も言っているがいわば「2ちゃんねる」的な世界である。


 仮名の場合も個人の特定は最低限だが、名無しの場合それが徹底される。西村の次の言葉で明確である。


人間に興味があるんじゃなくて,どちらかというと知識に興味があるんですよね。「この話をしたい」とか「こういう情報を知りたい」とか,目的は人間じゃなくてあくまで情報なんです。情報のやりとりをする場として「2ちゃんねる」を作っているので。「いま発言しているこの人が,本業としては何をしているか」 なんていう,「この人に関する情報」には興味がない。だから,それを削ぎ落とした形になってるんですよ。
(中略)
 そしてその場合,肩書きは邪魔になります,例えば僕が言っちゃうと,もう正しいんだと思い込んじゃう人って,やっぱりいるんですよね。「私は大学教授です」って書いちゃえば,「大学教授が書いているんだから正しいだろ」って信じてしまう人がいるけれども,それと情報の信頼性は本来違うはずです。
 匿名でいながら説得力のある人って,結局情報ソースを持っていたりとか,合理的に結論を導いていたりとか,誰が見ても納得できる理由を持っているわけです。情報としてはそっちのほうが信頼性が高くなるんじゃないのかなと思っているんですけど。
(「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」のひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化

 しかしウェブ人間論にもあるが、西洋ではこうした名無しや仮名の文化はほとんど見られない。


ブログあるいはfacebookmyspaceといったSNSを見ていても、彼らには名前がある、それも実名。


そして多くの人が自分の顔を出している。まったく対照的である。


これは彼らの自己主張の強さとも言えるが、その目的意識が先程述べた日本人とは異なる。リアルとネットが密接につながっているのである。


ブログ以外にfacebookといったSNSなどもそうなのだが、彼らはそれを媒介として、ビジネスまたは社会活動、交友関係を広げようとする意識が強い。


ビジネスであれば、顧客を集めるため、新たな会社へ転職するために。


社会活動であれば、ネット上で何百人を集めてダルフールの反対運動につなげるためであったりするのである。


海外のネット世代に詳しいドン・タプスコットはその著書『デジタルネイティブが世界を変える』で


  

ネット世代は、フェイスブックマイスペースなどのソーシャルネットワーキング・サイトを通じて、友人と常につながっている。ネットワーク内に直接会ったことがない人もいるが、ほとんどのソーシャルネットワークにはユーザーの「現実世界」の社会的結びつきという要素がある。(ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』P289)


と言っている。


リアルで大きな活動をするためには実名、顔写真、具体的なプロフィールは必須となってくる。


いわばネットのそれがそのまま履歴書となるのだ。


個をエンパワーメントするツールなのだ。



さてこのようなネット媒体を使っているのはもちろん西洋の人だけではない。

平野の言う5つの分類で言う一つ目がまさにそれである。


梅田はその著書『ウェブ時代をゆく』で



  

ブログで記録し続けることは、ロールモデルの引き出しを増やしていくことになる。同時にそれが志向性を同じくする人々と出会う可能性を高め、そのネット上での交流がまたロールモデルの引き出しを増やす循環を作り出し得る。(梅田望夫ウェブ時代をゆく』P137)



 と述べている。


また実名で書く人には有名人が多い。たとえば茂木健一郎も「クオリア日記」というブログを運営し、相当のPV数をあげている。


梅田との共著『フューチャリスト宣言』には、ブログを“自分とは何であるかを説明するインフラ”と言っている。


彼らのようなアルファブロガー(インフルエンサー)といわれるような人が少数存在している。


彼らはブログのランキングで上位に居座る影響力の強い人を言う。


もちろんこういった人達は数が限られる。


だからか、こういう特定少数は不特定多数からの避難を受けやすい。


平野もそうだったが、最近は梅田さんも避難を受け、今までの活動から少し方向性を変え、将棋にシフトしているようだ。



■ここで言えることは、実名がいいだとか、名無しの方がいいということではない。


それはその人や文化次第で変わってくる。


であるから、使い分けるようにするべきなのだ。


属している組織、その時の状況、自分の目的に従って。


そのためにはその媒体につい知らなくてはならないし、またその文化も理解せねばならない。



僕自身はmixifacebookに、はてなダイアリーをメインにいろいろな媒体に触れ、実験を繰り返している。

facebookでは実名でコミュニケートしているが、やはりブログや日本のSNSでは仮名を使っている。(最近までは実名を出していたが)


だがこれで正しいということはない。


ツールも変わるし、自身も変わっていく。


大切なのはその都度、疑い改善していくことである。

こうしてウェブ文学を通してこういったことを学べたのは本当によかったと思う。

これからもウェブ上の文章に触れ、それに見合った感覚をつけて、これからの文に接していきたいと思う。


※1ブログ。その言葉のもとは「Weblog=ウェブの記録」ということで、ウェブ上であった興味深いサイトにリンクし、その感想を記録できるスペース。それが通称ブログと言われているものだ。アメリカから始まったこのメディアは尋常じゃない勢いで増殖している。この日本は特にその勢いが顕著である。ブログのサービスサイトはざっと調べる限りでも50以上はあり、それぞれのサイトで差はあるもののかなりの数のブロガーがその世話となっている。


※2「あくまで梅田氏にとって、ウェブは『個をエンパワーメントする』ものでなければならないのであって、2ちゃんねるのように、巨大な内輪集団のなかに自己を埋没させるようなソーシャルウェアは、その限りではないのです。」(濱野智史アーキテクチャの生態系』P104)


※3 「ぼくらは既に仮想現実を生き始めている。そして、仮想現実を生きる以上、ぼくらは『キャラ』でしかあり得ない。」(相原博之『キャラ化するニッポン』※


参考文献:
梅田望夫ウェブ進化論』(ちくま新書, 2006)
濱野智史アーキテクチャの生態系』(NTT出版, 2008)
・著ドン・タプスコット 訳 栗原潔『デジタルネイティブが世界を変える』(翔泳社, 2009)
梅田望夫ウェブ時代をゆく-いかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書, 2007)
梅田望夫 / 茂木健一郎フューチャリスト宣言』(ちくま新書, 2007)
・相原博之『キャラ化するニッポン』(講談社現代新書, 2007)


梅田望夫平野啓一郎ウェブ人間論』|新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/reading.html
・増田とは- はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%FD%C5%C4
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http://anond.hatelabo.jp/20071105113746
2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」のひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化
http://www.4gamer.net/games/015/G001538/20080301003/