キャラクターに隠れる「本当の自分」

■ナンダカンダデキニシテイルキャラ













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■「○○って〜キャラだよね」

 「○○、キャラ濃くない?」

 街の中でも学校の中でも、やたらとこんな声を聞く。

 およそ僕の世代(超大雑把に10代から30代)の人で“キャラ”を気にする人は多い。

 かくいう僕もその一人で何かしらのキャラクターを見ると、それを理想として、それに近づけようと努力する。

 (自分の場合カリスマ系のキャラクターに惹かれることが多いw)

 どうしてこんな世の中になったのか。

 バンダイキャラクター研究所に勤める相原博之は『キャラ化するニッポン』で次のように言っている。


  ぼくらは既に仮想現実を生き始めている。

  そして、仮想現実を生きる以上、ぼくらは「キャラ」でしかあり得ない。

 
 仮想現実の影響を強く受けている人ほどキャラ意識は強い。

 ちょうど自分たちの世代は特に影響は大きい。

 アニメにゲームにマンガにネットなどなど。

 それらを触れずに生きることは不可能と言ってもいいほど、

 生活に氾濫していた。

 逆に僕らの世代より前の人はこれらに触れることは少なかっただろう。

 それにそういう娯楽が出てきても拒否反応を示し、

 自ら進んで触れてみることもなかったかもしれない。

 そういう人にキャラの話はあまり関係が無い。

 だが、相原の言うように仮想を生きる人にとってキャラは非常に大きい問題となる。


■このキャラ意識という問題の原因は、以下のように言える。


 「仮想」と「現実」の倒錯、又は「理想」と「現実」のギャップ。

 
 この科学技術の進歩した現在、我々はモノに囲まれて育ってきた。

 モノといっても特に娯楽の面では驚くべき進歩をもたらした。

 昔と比べると大分多様な遊びが用意されるようになった。

 自分たちから遊びをつくらなくても、待っていれば向こうからやってくるのだ。

 おもちゃ市場は大きいから、こぞって企業は子供(というか親)を狙う、これでもかこれでもかと言わんばjかりに。

 これが子供の創造性を奪わせる、とかそんな話は別ととして、

 とにかくそんな娯楽を楽しんできたわけだ。

 そして、その娯楽は一層バーチャルの要素を強めていく。

 先ほど出てきたアニメやゲームやマンガなど。

 それらに登場するキャラクターはとても魅力的だ。

 とても現実にはいるとは考えられないような。(少なくとも自分の周囲には)

 それらは娯楽にとどまらず、生活にも侵食してくる。

 いつの間にかキャラクターと一緒に生活していた。

 
 現実につらいことがあるとすぐにそういったキャラクターに向かう。

 癒しを求めたり、現実逃避をする。

 現実はつらいことが多い。

 人間関係で上手くいかない。

 テストの点が取れない。

 そうしてたまる鬱憤はすべてキャラクターに向けられる。

 キャラクター依存だ。

 現実は変わり通し、時に上手くいったと思えば、すぐに裏切られる。

 そんな無常で無情な現実とは異なり、

 仮想は変わらないし、いつでも自分を受け止める。

 たまりにたまるストレスから逃れるには仮想へ逃げ込むしかないわけだ。

 そうしてドップリと仮想へ漬かっていると、仮想に自己投影するようになる。

 アニメのキャラクターと自分を重ねてみたり、

 あるいは理想の自分をSNSのアバターで表現してみたりする。

 現実の自分から仮想の自分へと目をうつす。

 個人がこんなキャラ意識を持ち始めるのだ。


■こういった個人のキャラ意識は、集団にも適応される。

 身近なコミュニティでいえば学校なんてまさにそれ。

 ひとりひとりに“キャラ”が要求される。

 “いじられキャラ”とかはその典型。

 こうしたキャラを誰かにあてはめないと気がすまない、

 そんなことになっている。

 キャラが薄い、だなんて言われたら大変ショックなもんだ。

 なんとしてでも濃くせねばと、必死で変なキャラを作ろうとする。

 誰しもが“普通”という言葉を避けるのだ。

 そして学校も“個性”という言葉を使ってキャラを強制させる。

 お前はどういうキャラなんだ、そう問われ続けることとなる。

 キャラ=その人の居場所、ということなのだ。

 キャラ付けは自由というよりかは、義務みたいになってしまった。


■あまりに自分をキャラ意識することで忘れてしまうことがある。

 それは


 本当の自分


 である。

 自分探しの旅がよくなされるのも

 八方美人の末、多数のキャラクターをつくり

 カメレオンのごとく自分の原色を忘れてしまった末路であろう。

 本当の自分とは何か。

 キャラクターを度外視した哲学的な視点をもって問わしめるべきだ。