これから日本語をどうしようか?

■ニホンゴハセカイノホウゲンナノカ












日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で



















■1年のころ、不思議なことで言語学をやたらととっていた。

 確か登録制限単位数を大幅にオーバーしたためとりたい科目がとれなかったんだったと思う。

 それで人気のないものをとることに。

 どうせやるなら固めてとったほうがいいだろうと考えて、

 やたらと言語学の授業をとった記憶がある。

 あの時は正直何でこんなもんを選んだのか、と

 言語学の大家ブルームフィールドの大部な著書を眺めながらうんざりしていた。

 けど今になって、やっててよかったかなと思えるようになった。


 今日、演習で方言についての発表があり、それを聞いていた。

 言語の伝播というのは、まるで池に石を投じたときにできる水面のごとくだそうだ。

 円形にぱーっと拡がっていく。

 その中心から離れていけばいくほど、中心の言語とは異なった様相を見せる。

 ここでいう円の中心にあるのは首都である。

 首都が中心言語の制定をするのだ。

 その中心言語が地方へと伝播していき、その過程で様々な変化を遂げていく。

 
 だがそれは、もう昔の話。

 今はどうか、といえばその円形の中心にあるのは

 マスメディア

 である。

 そのマスメディアは昔のテレビやラジオだけでも局所に存在しているが

 今はウェブの時代、どこにもかしこにも存在している。

 どういったメディアから円形に拡がっているとしたのなら

 この日本はどこもかしこも円のほぼ中心下にあると言える。

 そのメディアで流れる言葉はほとんどが標準語。

 その標準語の圧倒的なパワーに方言は圧迫されている。

 しかも次世代を担う若い人たちほどメディアの影響を強く受けているため

 方言を知らない人すら存在する。


 ここで思ったのは、日本レベルで見れば日本の方言は絶滅しかねないなということだけれど


 世界レベルでみたらどうだろう。

 日本語は、世界言語である英語に対し方言みたいな存在になりかねないのではないだろうか、と。


 こういった質問をしたところでとある男性が水村美苗の著作『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を教えてくれた。

 この本の存在は知っていた。

 なぜなら前々から梅田望夫氏(id:umedamochio)が取り上げていて、

 ネットでは大変な話題になったから。



【My Life between Silicon Valley and Japan】水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。
 


 今や英語は世界の言語のユーザー数ではダントツトップである。

 学術の世界へ行ったら、英語を扱えることは前提の中の前提。

 英語で聞いて読んで、英語で話して書く。

 それが当然である。

 日本語うんぬんよりもまず英語それが世の常識とすらなっていないだろうか。

 そうしていくうりに日本語に触れる回数は少なくなっていき、そのレベルは格段に下がっていく。


 夏目漱石森鴎外などがいた明治の時代は日本語の黄金時代だった。

 漱石はイギリスにも留学しているし、鴎外はドイツに行っていたりと彼らは外国語に堪能である。

 日本語のレベルはどうか。

 言うのもばかばかしいくらいだ。

 あれほどの日本語の文体を書き、そしてあれほど外国語をつかいこなす。

 この秘訣はその志にある。


 「日本語を学術の世界へ持ち込む」


 という強い意志。

 これがあって成せる業なのであろう。


■日本語は世界で一番難しい言語だとよく言われている。

 ひらがなにカタカナに漢字とやたらと覚えるものが多いし、

 文法パターンもちょいと特殊。

 だがそれゆえに微細な表現が可能という素晴しさを持っている。

 
 日本語は決して亡くなることはないだろう。

 だけどその立ち位置は揺らいでいることは間違いない。


 僕のライフワークは


日本の思想や文化をITを通じて英語で全世界へ発信すること


 これ一つに尽きる。

 明治の彼らと同じ志をもって、これから日本語と英語に触れていきたい。

 あわよくば世界中の人たちが

 ひとりでも多く日本語に触れることを切に願う。


 いずれはブログも両言語でやりたい、って前々から言ってるけど

 英語がまだまだ、日本語もまだまだ(笑)

 これからでさぁ!


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で