こじつけるエネルギー
■エネルギーガヒツヨウダ
■最近も人によく会っている。
この間は東大文二の人と話をした。
彼もまた塾と学校の中間形のものをつくりたいと意気込んでいた。
受験がゴールの勉強ではなく、生涯学習を目指す。
その思いはまるで同じだったので、熱く握手を交わし、別れた。
■昨日は自分の学部の人で集まろうと、自分の友達2人を引き合わせた。
二人とも話すことが大好きなので、非常に話は盛り上がった。
3人集まればなんとやら、だ。
そこで話題となったのは、
エネルギーだ。
天才だとかバカだとか頭の優劣なんかよりもエネルギーの大小がより重要だ、とSは言う。
たとえバカでもエネルギーがあれば、ちょっとしたきっかけ(やってみろと発破をかける、とかその道の人を紹介する)を与えると
一気に花開くというのだ。
こういうエネルギーの大きい人は学部や大学は問われない。
それぞれ少数ではあるけれどもいるものだ。
逆に大学や学部に囚われてしまっている人もまた多い。
そいつらは頭がいいだけで、エネルギーがない。
そこでエネルギーをどうやってつけるか。
それについてOは4つの学習意識を提示した。
- 文
- 理
- 体
- 芸
これらのものを総合的にすることで、学習意欲の向上へとつながるという。
レオナルド・ダヴィンチのような万能性である。
そこでSはスポーツの万能性を訴える。
スポーツは意識いかんによっては、4つすべてを網羅する、という。
ランニングでも野球でもそれは「体」だけのことではなく、
何も考えずに運動はしない。
どうすればもっと自分は向上できるのか、フォームをどうするか、と論理的に考えるのも広い意味では「理」である。
また学んできたことがその最中でも思い出されるだろう。これも広い意味では「文」だ。
ただ単に走るのではなく、いつも違う場所へ行き、その変化を楽しむのは「芸」的な感性がはたらかされるのだろう。
どんな事柄にもこれら4つのものは関わってくる。
しかし、人はそれをしようとはしない。
ここで大事なのは
こじつける意識
である。
野球ばかり好きな人がサッカーの話をしている人たちにどうかかわるか。
普通であれば黙り込んでしまう。
しかしこじつけるエネルギーがあるのならば、いくらでも方向がある。
会話の盛り上がるのも冷めるのもこのエネルギーいかんによってである。
■こんなかんじで終わったか。
わりかしと短い時間であったけれど、濃厚な時を過ごせた。
エネルギーはどういう風に生まれるか。
それは
エネルギーある人と接すること
が一番いいだろう。
不思議なことにエネルギーは誰かにあげてもなくなるものではなく
むしろ自分も高まるものだ。
そうやって常にそういうところへ身をおく。
善循環が始まるわけだ。
いつも意識しておきたい。
学んだことは多かったよ。
有難う、SとO。