専門性をもつこと

■センモンセイッテ・・・












■僕が購読している「平成・進化論」という発行部数日本一のメルマガがあるのですが、

 そちらではただ今、「コーヒー馬鹿」を通して、その専門性の強みについて語られています。



以下引用

■あるひとつの世界において、「○○馬鹿」として
 雷名がとどろくようになれば、

 その世界の中では当然のことながら、
 何の関わりもない外の世界も巻き込むほどの

 【 吸引力 】

 が、おのずと持てるようになってきます。


 そうなると、「食えるか、食えないか」という話からは
 遠く離れた

 【 没我の境地 】

 で、心ゆくまで、自分の世界にのめり込んで
 生きられるようにもなります。


引用終わり


 こういう文を読ませていただくと、自分の専門性を問わずにはおれません。

 すると、そんな大層なものはない自分に目がいき、

 これでいいのだろうか、と不安になったりしていました。

 だけども、次のように思いました。


 専門性に遅いも早いもあるものか


 こうした専門性は、若い内に必ずしも持っていなければならないものではないのではないか。

 ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進も「本当に生涯かけて研究できるテーマを見つけるまでは動くな」とも言っています。

 「流行だから」「みんなそうしてるから」と下手に専門を決めてしまう方がよっぽど怖い。

 それよりかは、今はそれを見極める「ジャッジメント能力」をつけるために、いろんなことをすべきだろう、と思うのです。

 逆に年老いても、その気さえあれば専門性は得られる、そう考える思考回路でありたいですね。

 そうすれば、あの不安はなくなりはしないものの、ホッとできますよね。