あけましておめでとう…?
■テレビも賑やか、人も華やか、街も爽やか。
1月1日を迎えたこの日、
「あけましておめでとう」
「あけおめ〜」
と誰もが口にしている。
しかし、ちょっと待て。
新年迎えて、一体何が「めでたい」のサ?
と冷ややかに言ってみる。
少し立ち止まって考えて見よう。
■常識的な人たちが言いそうなのは、
「無事に新しい年を迎えられたから」
ウン、確かにそれは正論であるけど、甘い。だって、それってこんな言い方も出来ないか?
「去年には戻れない」
「1年老けた」
「1年分の寿命を使い果たした」
「1年死に近づいた」
こういう言い方すると、なんだかとても「おめでたい」気分にはならない。
「そんな言い方しなくても」「過剰だ」と言われても、言い方を変えただけなので事実であることに変わりはない。
■現に無事に1月1日を迎えられなかった人もいるのが現実だ。
いくら会社や学校がなくたって、案外身近なものが凶器になったりする。こんな人にとっては、正月によって殺されたとも言える。
あるいは
生活危機:失業の100人超、続々 東京・日比谷公園に「年越し村」開設(毎日.jp)
これらの失業者たちも「おめでたい」気分にはなれまい。去年の終わりも、今年初頭も同じく不景気だからだ。
2008年と2009年は断絶の関係にあるんではない。
密接な関係にあり、切れぬ関係であり、去年あったことはそのまま今年に影響してくる。
ゲームみたいにリセットしたわけじゃないのだ。
■別に去年の1分も今年の1分もその内実は変わっても、長さは決して変わらない、同じ1分間。
時間の意識はもちろんだいじではあるけれども、それより大事なのは
その時間をいかにして使うか、という心の持ちよう
だと思う。
1月1日だろうが、12月31日だろうが、7月12日だろうが、この心は変えちゃいけない。
「昨日」よりは「今日」、「今日」よりは「明日」。
残された時間をどう生きるか、その生き方で
「めでたい」か「めでたくない」か決まってくるのではないだろうか。
頭が「おめでたい」というのは、単なるバカである。
そうではなく
心が「おめでたい」そんな状態でありたいものだ。