「〜に似てる」発言の影響
「君って○○に似てるね」
「お前の顔△△っぽいね」
「□□と雰囲気が同じだねぇ」
■教室、電車の中、街道、ショッピングモール、会社、などいたるところでこれらの言葉を聞く。
これらの言葉皆さんはどう思うだろうか?
僕は上記のような発言を受けたり、聞いたりすると、いい気分じゃなくなる。というかはっきり言って不快だ。仮に似ていると言われる対象がすごい人でも。
なぜ不快を覚えるのだろう。
少し考えてみた。
結論を先に言えば、ひとえに
「似ている」とか「同じ」など、これらの言葉は対象の「固有性」を失わせる
ことが原因ではないだろうか。
■例えをあげてみよう。
「AとBが似ている」とCが思い、「AってBと似てるね」とAにCが言うとしよう。
この過程では、第三者であるCによってAとBが分析されて、結論として「AとBは〜の面において似ている」「同じ」ということになったわけだ。
つまりCが、AとBの共通点を抽出して、その「似ている」トコロを前面に出して、レッテルを貼り付けるのである。
このレッテルが厄介なわけで、そこにはAとBの個性なるものは存在していない。「似ていて」も細かく見てみれば全く違う二人なのに。
彼らのそれぞれの特質は「似ている」と言われたときに、捨象されてしまう。
「お前ら顔似てるな」
と言われて
「鼻が全然違うだろうが!」「目はこんなに小さくないもん…」
とカチンとくるのがいい例だ。
また
「君、速水もこみちに似てるわ〜」「上戸に超ソックリ」
と褒められたとしても、複雑な気分になるのも
ハンサム、あるいは美人という共通項にくくられると同時に、「自分」というものをそのまま消されたような感じになるからだろう。
■よくあるパターンとして最悪なのは
似ているからそのまま『アダ名』化
しちゃうこと。
これある種の「いじめ」なんじゃないか、と思うくらい。
ちょっと有名人の誰かに(あるいは近くの人に)似ているからって、何年間も呼ばれたとしたら、本人も慣れるだろうが、屈辱じゃなかろうか。
そこには彼の「個」はないのだから。
名前なんて記号といっても割り切れないものがあるだろう。
本名か本名にちなんだニックネームで呼んであげたいところだ。
■「似ているね」と発言したところで相手に及ぼすポジティブな作用は至って少ない。せいぜい言った自分が分析した結果に満足するだけで、誰も得しない。
「似てる」と思うだけなら全く影響は及ぼさない。しかし、それを声にしちゃあイカンでしょ。心にとどめておかないと。
それらの言葉が褒め言葉のように思っている人はいるがそれは大いに間違っている。
各人それぞれが持つ「個性」「特性」「固有性」に着目して、そこを徹底的に褒めてあげよう。
■ただ、この問題は第三者が言うから問題なのであって、自分が言うなら問題はない。
しかし
「俺は亀梨と似ているぜ!」「アタシ超エビチャンに似てない?」
なんて言っているのは、イタイだけである(笑)