茂木さんの応答についての言及

■さて、大分長い時をおいてしまいましたが、11月24日にあった東大の茂木さんの講演会での応答についての言及文を書きたいと思う。


その前にちょっとおさらいとして、その応答の内容をコチラに。


ぼく:



 「たくさんの同世代の人間と話していてよく思うのですが、

 科学が進歩した現代、脳が世界や心を創っている、という脳一元論的な考えから、

 どうせ死んで脳の活動が停止してしまうのだったら、

 全てなくなってしまう、

 生きることには意味がなくなってしまう、

 というニヒリズム虚無主義)を感じているヤツが多いような気がします。

 茂木さんはこれについてどう思いますか?」



茂木さん:


 ぼくも世界は機械論だと思っていた、32歳までは。

 だけど32歳の時、電車の音を聞いてクオリアということを知った。

 質感がある、意識がある。

 脳の周波数を分析してもどうしても電車のクオリア(ガタンゴットンというあの音)にとどかない


 そのことに気がついた時、衝撃だった。

 俺は今でもあの衝撃の残照の中に生きている。

 

 脳神経科学がどんなに発達しても届かない。


 わかんないのですよ

 

 これが青く見えている クオリア ということが・・・


 質感がある
 意識がある


 科学主義の論理から出てこない。


 このことをどう説明するか?


 わかんない


 私たちは世界の真理をぜんぜん知り尽くしていない。

 どんなサプライズもおこりうると思う。


 ニヒリズムなんかないと僕は思う。

 フェルメールの画をみてもその友達はニヒリズムを感じるのか?


 もしそうなら

 そいつらにニヒリズムの一時的忘却に勤めるよう、よろしく伝えてといてくれ。



といった応答だった。


■結局のところ茂木さんの答えは簡潔に言えば


「わからない」



「忘却」


だった。

「わからない」というのはつまり「いかなるサプライズもおこりうる」つまり、そう「無限の可能性」を秘めているということだ。


「確かにそうとも言える、だがしかし・・・」


「機械論という可能性も大いに考えられる、しかしこの『クオリア』や『意識』の問題を解明すれば・・・」

とこういうことになる。

だから、この「無限の可能性」は

「知のオープンエンド」

とか

「暗闇への跳躍」

ともポジティブにとらえることは可能だ。


だがしかし、逆に負の側面を見ると


「終わりがない」

「キリがない」

「一時的満足」


と言うことができる。

いや、というかむしろ、学問・研究をすればするほどこちらが前面に出てきやしないだろうか。


今ある常識や法則も、過去から修正・改善・転回されてきたもの。

法律だって物理法則だって、革命の連続である。

だとすると、同様に現在「これが正しい」と思われてるものも、未来では「間違っていた」「誤りであった」と思われるものではないのか。


ハッキリと「これこそ真実だ」「これこそ真理」、といえるものはあるのか。


あのアイザック・ニュートンも自分のことを

「真理の大海を前に、小石や貝殻で喜んでいる小さな子供

のようなものと言っている。

また、あのチャールズ・ダーウィンまでも自身のことを

「事実の山をすりつぶして、一般法則をしぼりだす機械」

と語っている。

これを茂木さんの著書である『思考の補助線』では、「無限に向き合う真摯な思い」と表現しているが、ぼくにはとてもそうはとらえられない。

これは「真摯」な態度ではなく、

最果てのない「仮初めの事実」の発見者である自己に落胆している「絶望」の言葉としか思えない。

「世界の神秘」を解明することが人生の目的、みたいなことを思って頑張っていても、ふと我に返ると「何も分かっていない自分」が分かるように。



「限りある人間の生において、明示的なかたちで世界を引き受けることなど、たかが知れている」

「無限に向き合うときに私たちの心の中にわき起こるさまざまな感情は、基本的に絶望の通奏低音で満たされているが、その絶望の中でも、有為の有限を積み重ねる。そのような努力の中に、人間の感情技術の精華があると信じたい。」

と『思考の補助線』(P152)に茂木さんは書かれている。

結局はそう「信じる」しかない。

信じれない人間はどうするか。

フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を見てほぅっと感動するか、

モーツァルトの『ディベルティメント変ホ長調』を聴いて一時の安らぎを得ることなど、

感情による「忘却」しかないのだ。



■茂木さんの言っていることに反論するわけではない。

いや、そもそも「どう思うか」と尋ねて、単に茂木さんの考えが知りたかっただけだ。

「正しい」も「間違い」も言える立場ではなかろう。


だが、「忘却」あるいは「信じる」という解決策は、一時的にニヒリズムを頭から消すことはできるが、

本質的に解決する策としてはまだ全然不十分である、とは言える。


そもそもニヒリズムを感じてないなんて言う人は、感情によるオブラートで自らをつつんでいるだけだ。

一度そのオブラートを拭い取ってみるといい。

そこに見えるおぞましき絶望の淵に驚くはずだ。

そして、その驚きから、現代のニヒリズムを打開する哲学は始まる。

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ちくま新書 2008発刊『思考の補助線』サイン入り)