美と呼ばれる現実と仮想

日本海に沈む夕陽を見る女の子(1)
日本海に沈む夕陽を見る女の子(1) posted by (C)KYR




■「君にとっての『美しさ』『綺麗さ』って何だろうか」と突如問われて、あなたの頭には何が浮かぶだろうか。


 とある街の喧噪の中ふとみかけたつややかな黒髪を持った女性、神田川の水面に浮かぶ桜の花びら、あるいは生後間もないロシアンブルーの瞳の蒼さ、また早朝池の水面に日差しが乱反射する光景など、人によってまちまちだろう。


 それぞれ人はある時、ある場所で、何かを見て「美」を感じた体験があるはずだ。

 美しさを感じさせたそれらは人にほぅっと溜息をつかせ、感嘆させる。「あぁ、美しい」と言わしむる。

 実際に目の前で視認できる。触れようと思えば触れられる。確かにそこに「ある」現実(リアル)。

 
 しかし、それらはあまりに脆い

 必ず裏切られる運命にある。


 鼻高く、睫毛も長く、絹のような髪を持った女性は一目見たら美しいと思うだろう。けれど、50年後の彼女を見て同じように「美しい」と言えるか。

 確かに神田川に浮かぶ桜の花びらが集まり形を成している様子を見ると奇麗だなと言う。だが、3時間後に排水溝に詰まっている花びらを見て「奇麗」と言えるのだろうか。


 残念ながらそうしたリアルの美は、停止するということがない。常に変化する。


 我々が語る「美」とは、醜から変化したある1点を見ているに過ぎない。その先の変化を見ていないのである。

 そう言ってしまうと現実の「美」は、本質的な美になりえないこととなる。


だが、仮想では「美」の絶頂を捉えることが可能だ。


 街の中で見かけ一目ぼれした彼女は、10年後でも頭の中ではその時のままだ。

 神田川の桜だって、過去の記憶を再生すれば、いくらでもその散って流れていく様子を思い浮かべることができる。

 今は亡きロシアンブルーが3歳だったころを想像すれば、その澄んだ蒼い目はそのまま残っている。


 「美」と思ったある1点に止めてしまうことが仮想では出来る。さらに止めるどころか、「美」へと変化させることすら出来よう。


 photoshopを使えば、あれだけ細い目がパチッとし、薄い唇も健康的なピンク色の唇へと変えられる。

 
 仮想世界では「美」は自由自在である。自分を美化することなど容易いことだし、ましてや他の「美」を掌握することが許される。まさに仮想世界において、人は「美の絶対権力者」とすら言えよう。


■「だから、仮想世界に生きることが人間の幸せだ」なんていう陳腐きわまりない結論で終わるわけはない。そんなことになったらこの世は破滅してしまう。

 もちろん「仮想美」には致命的な欠点がある。


 それは、あくまで「仮想」。結局は(仮)がつく。


 20年後でも変わらぬ美しさの頭の中の彼女というのは、「美しい彼女(仮)」であり、「美しい彼女」ではない。現実は美しい彼女か分からない。

 先ほどの言葉で言えば、「美の絶対権力者」であるのはあくまで仮想世界だけにおいての話だ。そこから出たら絶対権力者でも何でもなく、美を求め悪戦苦闘する「美の奴隷」へと成り下がる。


 世界は仮想ではない。世界は現実である。

 ゲームが現実なんかじゃあない。ゲームをしている自分がリアルなわけだ。


 仮想へ溶け込むのが「現実逃避」といわれるように、それは逃避に過ぎない。しかもその逃避は逃げ切れることはない。


 photoshopで大きなホクロを削ったとしても、変るのはあくまでパソコンにある自分の画像データ。実際に自分のホクロは消えていない。上手いことphotoshopで修正できたところで、最期に向き合うのは何も変わっていない自分の顔なのだ。


■このように考えていくと、「本当の美」というものは何なのだろうか。いずこにあるのだろうか。

 それはきっと映ろいゆく現実というわけでもなくて、逃避して打ち立てた仮想という偽物でもない、超越的なものなのだろう。

 移ろいゆく中で移ろわない、変っていく中でも変化しない、そんな絶対的な「美」であろう。



じぃ〜っと
じぃ〜っと posted by (C)nekoneko