「頭がいい」とは

■最近ちまたの有名ブログなどでとりあげられ、話題になっている

「勉強できる=頭がいいのか?」

ということについてちと言及してみたい。




■「勉強できる」というのは、客観的な評価であり、いわゆるテストなどの点がとれることだ。

 勉強の質が高い人や、あるいは勉強の量が多い人たちが「勉強できる」人と呼ばれている。

 言い換えれば、あまり勉強せずに点数がとれる天才型、たくさん勉強をして点数がとれる努力型たちのことだ。

(当然のことだが、勉強の質が高くても、あまりに短時間だと結果は出ないし、勉強量は多くとも、あまりに質の低い勉強をしていたら結果にはつながってこない。)

 要するに、イイ点という結果にさえつながってくれば「勉強できる」になるのである。

 そして、もちろん勉強の質と量をともに上げた人は、結果的にテストの点がさらによくなる。

 そうした「勉強できる」人が、いわゆるイイ成績をおさめて、イイ学校に入って、イイ会社へ行くわけである。



■しかし、それを「頭がいい」とは果たして言えるのだろうか?

 僕は


「勉強が出来るから頭がいい」とは言えない


と思っている。



 イイ成績をおさめたヤツが薬物やらないのか?イイ学校に入学したやつが暴力事件をおこさないのか?イイ会社に入ったらセクハラしないのか?


 断じて否。世間のニュースはそんな事件ばかりじゃないか。


 ぼくの思う「頭がいい」というのは


先見力


をもっている人のことだ。



 今のその行為が後にどういう影響を及ぼすか。

  この事象が起こるということはこの先どんなことが引き起こるのか。

   こういう特質を持つ商品は売れるだろうか。

    ○年後の日本(世界)はどうなるか。

     将来彼はどうなっているのか。

      自分の末路はどうなるのか。



 様々な知見から先(未来)を見通す力。周りの情報を分析し、未来を予測できる力。


 それが「先見力」。


 こういった能力は政治・経済・科学・ビジネス・医学問わずどんなところでも重要視される。こういった能力を持つ者こそ「頭がいい」と初めて言えるものだ。

 そもそもこれは勉強することで得られるものだろうか。

 もし得られているのならば、世間のいわゆるエリートたちが不正を犯し、世間から叩かれていることなどおきるはずがない。

 さんざん勉強してきたハズの彼らが


 隠蔽→露呈

 痴漢→逮捕

 失言→落選


といった「因果律」を全く分かってない。これはひとえに「勉強できる=頭がいい」の不成立を物語っていないか。



■「先見力」をつけるためには


哲学的思考



豊富な経験


が必要だ。


 「勉強できる」だけのエリート集団は、


 勉強→いい点がとれる


という経験はどんな人よりも持っているはず。しかし基本的に”やらされてきた”勉強なので、そこに哲学的思考がない。「やれ」と言われて、やっているだけなのだから、犬のしつけと何が変わろう。それでは「先見力」は身につかない。

 また試験勉強しかしてこなかった人は豊富な経験がないため、試験以外のことには応用がきかないのだ。


■一般的に「先見力」がある人は、テストの点がいい場合が多い。

 テストの点がいい、と得することが多いからだ。

 そのため「頭がいい⇒勉強ができる」は一理ある。

 しかし、テストなんかよりも重要なことを見出した人には、点数にこだわらない。

「テスト勉強よりももっと大切なこれをしなければ!」と思う彼らは、勉強をしないのだから、当然結果が悪い。しかしそれでも、彼らにとってテストの点は関係ないのだ。


 「勉強が出来ない」からといって「頭が悪い」とは決めつけられない。

 テストがたとえ0点でも、彼はそんなものより大切なことに目が向いているのかもしれない。