ケータイ”小説”の存在


■コレッテドウナンデショ?
















■昨日は授業が夜遅くまであり、なかなか大変だった。

 久しぶりの感覚だ。嬉しくも辛いというか、何というか。

 世間の流行を画像で示すために、社会学の教授が

 「これはいい資料になる」と、後ろから思わずパチリと撮った

 女性の写真を見て

 「著作権的にどうなのだろうか。これって盗撮ともいえるんじゃ?」とか考えたり、

 あるいは授業のための教科書に2800円も出す価値はあるのだろうか、

 と散々悩んだり、

 はたまた演習での3年の立場ってのにも思索したり、

 とまあ知的刺激にことかかない。

 有難い話だ。


■とっている授業の中で

 「ウェブ文学」

 についてのものがあり、そこでは今「ケータイ小説」を扱っている。

 この「ケータイ小説」だが、世間の評価はいろいろだ。

 反対派としては、こんなものは文学でない、とか、ストーリーがワンパターンとか。

 肯定派としては、ケータイで見やすい新たな文体、などなど。

 賛否両論である。


 僕の意見としては、ある種肯定でもあるが、ある種否定でもある中立という典型的な立場である。

 肯定の理由としては、既存の文学概念をブチ壊した、ということだ。

 昔から文学の世界は、固く狭く不自由なものだ。

 出版社とのいざこざ、まるで政治家のような派閥争い。

 文学の内容でなく、作家の振舞いで本の値段や発行部数が決まるなんてことだってある。

 多くの作家が出版業界に生かされているものの、同時に殺されている。

 そんな世界だ。

 ところが「ケータイ小説」はどうか。

 あまりに”自由”ではないか。

 そこに世知辛い争いは見られない。

 その作者がのびのびとケータイという場で好きなことを書いているではないか。

 固く狭く不自由な世界に、

 柔らかい、広い、自由なウェブの世界が重なり合う。

 そこで何が起こるのか。

 面白いではないか。

 固定概念、旧き伝統をブチ壊すことは、僕としては大歓迎だ。

 今はそういう力が求められる。


 しかし、反対の意見としては”文学””小説”というにはちと物足りぬ。

 内容もたしかにワンパターン。悲劇のヒロインに、悲劇のヒーロー。

 これでもかこれでもか、と泣かせようとする努力にこちらが泣ける。

 正義と悪の超単純構造で成り立っているハリウッド映画のようだ。

 今や小学生のほとんどがケータイいじって、それらを見てるのだ。

 彼らにそれが”文学””小説”と認識してもらいたくはない。

 (内容的にもドギツイもの多いし…)

 別に「ウェブ読み物」を馬鹿にするつもりはない。

 ウェブ発祥のADV(アドベンチャーゲーム)とかにも見事な文を書く人はいるし、

 現にそういう人は脚光を浴びている。

 ただ”小説”とか”文学”というと何か違和感を覚える。

 そういう言葉しかないから、あてはめざるをえないんだろうけれど

 何か別の言葉をあてはめて、新たな概念として認められたらいいのだけれど。

 
 ま、きっと十年後にはこの概念にちゃんと名前がついて、世界中に浸透しているんだろうなぁ。

 それもまたいいだろうよ。